日本の缶詰は明治4年(1871年)長崎の人・松田雅典が長崎在中のフランス人レオン・ジュリー(leon Dury)にイワシの油漬け缶詰の作り方を伝授されたのが始まりとされている。
ただこの年に作られた缶詰はあくまでも試作的なものであり、商業的に生産されたのは明治10年明治政府が殖産振興策として北海道の開拓使缶詰工場でサケの缶詰が製造されたのが始まりとしている。
当初空缶は缶詰の製造業者が自家製造するのが原則であった。ブリキ缶を造る機械が工場内に設備されており、蓋底打ち抜きチンプレス、脚踏みブリキ板切断機、手回しピーターロール、手動用三本ロール、筒形胴付け機、半田切断機等を用いて製缶された。
明治初め缶詰製造を志した人には茶筒などを造る「ブリキ屋さん」も大勢いた様である。はんだ篭手(=こて)を片手に一日数十缶〜百数缶の職人技術であったと言われている。
明治10年代に歩み出した日本の缶詰製造は、明治27〜28年の日清戦争、さらにその10年後の日露戦争を契機に「兵隊食」の缶詰として大きな需要となり、拡がり発展した。
そのころの缶詰は1缶20〜35銭と白米1升(7.65銭)と比較して、かなり高価であったといわれている。
その後、戦争の終結とともに役目を果たし終えた缶詰産業は輸出産業としての一歩を踏み出した。
日清戦争で台湾、日露戦争で北洋漁業と大きな資源を確保した日本はパイナップル、鮭鱒・カニを原料とした缶詰の発展を見た。さらにタケノコ、グリーンピース等の蔬菜の缶詰も出現し今日の様な水産、畜肉、果実、蔬菜と様々な分野の缶詰が誕生した。
缶詰の製造が一つの産業として確立すると日露戦争の後の軍需が一旦途絶えるものの欧米人の嗜好にあった缶詰を開発することで輸出産業として缶詰産業は大きく転換した。
代表する例として千島・樺太のカニ缶詰、カムチャツカのサケ缶詰である。
いずれも水煮で欧米人に歓迎され品質も優良だったといわれている。
そのほか、カキ、エビ、貝柱、グリーンピースなどもこれに加わった。
大正11年にサケ缶詰の国内消費拡大を目的とした「缶詰普及協会」が創立され輸出とともに国内の需要拡大を図った。当普及協会の活動としては、①市販缶詰開缶研究会②研究会に出品の優良缶詰に推奨マークの貼付③缶詰の宣伝試食等を行っている。
大正12年に相模湾を震源地とする関東大震災が発生し、京浜地帯に壊滅的な打撃を与えたが、その時避難民の救済に缶詰が使われ、はからずも国内の需要を高めるきっかけになった。
●製缶業界のあゆみ
大正年間に缶詰業からの製缶業の分離・独立は下記の経緯を辿った。明治維新以降、我が国においては缶詰業が勃興したが明治年間においては、缶詰業と製缶業の分離がなされず、それぞれの缶詰工場にて製缶の熟練工を抱え缶を製造していた。しかし、北洋漁業のサケ・マスを原料とした缶詰製造を開始した堤商会が、大正2年に米国より自動製缶機を購入し、カムチャツカにて缶詰を製造した。この自動製缶機は高性能であり、自社が製造する缶詰以上の能力を発揮した。大正5年に函館に移設し自動製缶機の空缶製造の余力分を外部の缶詰会社に販売した事が缶詰製造と製缶業が分離した始まりであった。
しかし、名実ともに缶詰業から製缶業が分離・独立したのは大正6年の大阪にて米国から自動製缶機を購入し、創業した東洋製罐株式会社であった。
大正10年には、北海製罐倉庫株式会社が創業した。同社は北洋漁業関連の空缶製造を目的に設立された。また大正14年には函館に日本製罐株式会社が創業した。この製缶業の分離・独立によって、それまでの缶詰業者が勝手な寸法の缶を注文し、製缶会社が多品種小ロットの生産を強いられていたものを、より安価な空缶を提供することを目的に、缶詰業者と協議の上、空缶の規格統一化が推進された。
昭和に入り静岡県水産試験場でマグロ油漬缶詰が研究開発され特に米国市場に輸出され好評を博した。
このマグロ油漬缶詰の登場は日本の缶詰業界の拡大に大きな影響を与えるとともに、缶詰品目としても重要な地位を築いた。
また、ミカン缶詰も昭和3年に広島県の加島将人氏によってアルカリ剥皮法が開発され本格的な製造が始められた。ミカン缶詰の工業化は広島・大阪から静岡、神奈川等全国各地に拡がり、また製造法にも画期的な進歩が見られ、飛躍的な生産数の伸びをみせた。ミカン缶詰は主にイギリス等ヨーロッパへ輸出され大きな市場を築いた。
また、昭和2年に、明治38年創立の大日本缶詰連合会と、大正11年創立の缶詰普及協会の2つの缶詰業界団体が合併し社団法人日本缶詰協会が設立され缶詰業界におけるその時どきの問題を協議、缶詰品評会の開催、技術研究等を行い缶詰業界の発展のために大いに寄与した。
日本の缶詰業界は昭和10年代に入って一段と発展した。当時の統計によると昭和13年度の缶詰の生産数は1,519万函・生産金額2億1,438万円、輸出高は716万函・1億1,382万円となっている。当時の日本の輸出総金額は18億円余りとなっており、国として外貨獲得の為の大きな産業のポジションを占める様になった。
昭和13、14年頃が缶詰産業の昭和戦前における生産数のピークとなったと思われる。しかし、この頃から缶詰業界にも戦争の影が射す様になってきた。
昭和6年に起こった満州事変に始まり「日中戦争」「太平洋戦争」と続き、缶詰業界にとっても製缶業界にとっても波瀾万丈の時代であった。
昭和17年には食糧管理法が公布され、缶詰を始めとする重要食糧は配給・消費・貯蔵などについて国家管理体制が強化された。
昭和10年代の後半になると、資源に恵まれない日本は各方面に緊急な対応が要求された。製缶・缶詰業界はブリキ不足が日を追って深刻になり、代用の容器が模索され紙の容器、陶磁器の壺(缶詰)などが登場した。
●製缶業界のあゆみ
製缶会社は、第1次世界大戦の終了後の缶詰業界の輸出拡大(サケ・マス缶詰、カニ缶詰、マグロ缶詰、ミカン缶詰等)により会社数・生産数とも拡大を続けていたが、昭和12年に始まった日中戦争の影響による経済統制の強化により、昭和16年に東洋製罐・北海製罐倉庫・日本製罐・朝鮮製罐・明光堂・広島製罐・鶴見製罐・長瀬商事の8社が合併し、新たに東洋製罐株式会社を設立し、ここに製缶業界の9割を占める大合同が実現した。
太平洋戦争が勃発すると、戦域の拡大に伴い製缶用の物資の割当も減少の一途を辿り、軍用と育児ミルク用缶のみの生産となった。当然、製缶だけでは経営が困難となり、昭和19年には、軍需会社の指定を受け、時局の要請する軍需品製作に転換せざるを得なくなった。戦局の悪化とともに米軍機の本土空襲は次第に激しくなり全国各都市が次々と爆撃を受け、製缶工場の一部も被災し、昭和20年8月15日の終戦を迎えることとなった。
昭和20年終戦を迎えたが日本の産業・経済は壊滅的な打撃をうけた。終戦直後においては米国等の連合国の統治下にありながら缶詰産業は、戦時統制から業界による自主統制に向かって、様々な過程を経つつも徐々に産業としての活動を開始した。戦争の後の混乱と窮乏が消え去らない昭和22年7月静岡県清水港からミカン缶詰がイギリスに向け、戦後初めて輸出された。
終戦によって原料となる北洋のサケ・マス及び台湾のパイナップル、砂糖を失ったがミカン・マグロ缶詰は缶詰の輸出主力品目として外貨獲得のために大きな役割を果たした。
また、缶詰業界においても、業界の復興さらに市場拡大を図るべく、昭和23年には社団法人日本缶詰研究所が母体となり、休眠中の日本缶詰協会、戦後創立された缶瓶詰振興会とが一体となり、新たに「缶瓶詰協会(現日本缶詰協会)」として再出発を果たした。
主に戦後の缶詰業界は輸出を主体に再建・生産され、ミカン缶詰、マグロ缶詰の業界が再編され、さらに北洋漁業の再開を果たすと共にサバ、イワシ、サンマ、いわゆる“青物”缶詰も輸出の拡大に大きく貢献した。
●製缶業界のあゆみ
終戦を迎えた製缶業界は、製缶設備・建物等の設備についての損害は全体として軽微であり、生産能力に大きな影響は無かった。しかし、缶用の配給資材が枯渇し統制が強化された為、製缶業以外の様々な商品生産(アンカー壜・紙容器等)をせざるを得ない惨憺たる状況となっていた。一方、缶詰産業の戦後の復興に係わる役割は大きく期待され、それに応えるべく製缶業界としても着々と体制を整えていった。
昭和25年には、過度経済力集中排除法に基づき、小樽工場及び付属設備、資産を東洋製罐株式会社から分離・独立させ、新たに北海製罐株式会社が設立された。
また大和製罐株式会社と九州製罐株式会社が第2次世界大戦後、新規参入を果たした。
大和製罐株式会社は、昭和14年に創立された大阪コルク工業株式会社を前身とする。同社は戦前・戦時中は民需・軍需用の合成コルクの製造を行っていたが、昭和24年に本格的な食缶の製造を開始し、昭和28年に社名を大和製罐株式会社に改称した。一方、九州製罐株式会社は、昭和25年に長崎市に創立された。昭和40年に同社は、大和製罐株式会社と合併し、新たに大和製罐株式会社が発足した。
また、第一金属工業株式会社が昭和21年、本州製罐株式会社が昭和33年、東海製罐株式会社が同じく昭和33年、千葉製缶株式会社(現 大和千葉製罐株式会社)が昭和44年に創立された。
この様な時代背景のもとに日本製缶協会が昭和33年に誕生した。
☆協会のあゆみ
東洋製罐株式会社、大和製罐株式会社、北海製罐株式会社、四国製罐株式会社、第一金属工業株式会社、株式会社東京堂鋼器製作所、東海製罐株式会社、日本硝子株式会社、富士製罐株式会社、山本製罐株式会社、川勝製罐株式会社、九州製罐株式会社の12社の参画があった。
当協会の発足当初、缶詰の多くは輸出され大きな産業として形成されていた。しかし缶詰として使用される空缶の主たる材料であるブリキ価格は輸出向けと国内向けでは格差があり、それは大きいものがあった。
そこで、輸出産業として維持していくための大きな課題の一つとしてブリキの値下げが必須であった。
缶詰業界の要請を受け当協会はブリキメーカーとの値下げ交渉に当たり輸出缶詰用空缶に使用されるブリキ価格の値下げを実現し、輸出の振興に貢献をした。
缶詰業界にはサンマ缶詰、ミカン缶詰、イワシ缶詰、イカ缶詰、サケ・マス缶詰、カニ缶詰、マグロ缶詰等を生産するメーカーの輸出組合が作られていた。これら組合を基点として各種缶詰の輸出の拡大の活動をしており、当協会はこれ等組合に対する窓口として大きな役割を果たし缶詰の輸出拡大に大いに貢献した。
また、輸出拡大とともに国内経済も戦後からやっと脱却、戦後最初の高度成長期がはじまり、国内消費意欲の拡大、安価なエネルギーが確保され缶詰の消費にも目が向けられる様になった。
昭和30年代当時は、冷蔵庫の普及率が低く、食品は「常温」で保管・流通できることが求められており、缶詰は当時の生活ニーズにあった食品であったが、まだ一般的には缶詰の活用方法が認知されていなかったため、国内消費拡大のためのキャンペーンをブリキメーカーとともに行った。後には日本缶詰協会、全国缶詰問屋協会(現日本加工食品卸協会)の各団体とともに更に規模を広げ缶詰消費拡大のためのキャンペーンを実施した。
昭和35年にいわゆる「にせ牛缶」事件が発生したことなどにより、印刷缶のもつ中身の保証性などが注視され印刷缶の採用が拡がった。
また、国内においても缶詰の品質を保証するための各種規格が徐々に整備され始め、食品缶詰の表示に関する公正競争規約、JAS規格の制度が確立した。
このことにより製缶業界は印刷を通して、缶詰のラベル表示に大きく関わりをもつ様になり、当協会としては製缶業界の代表窓口として表示における缶詰業界団体との情報交換の重要な役割を担う様になった。
昭和46年、日本製缶協会、日本缶詰協会、全国缶詰問屋協会、日本果汁協会、日本果汁農業協同組合連合会、全国トマト工業会、全国清涼飲料工業会7団体による表示問題連絡協議会が設置された。
また、市場の拡大に伴い缶詰の生産技術も高度化してきており、缶詰製造技術者の養成が急務とされた。
当協会は日本缶詰協会と共にその責務を果たすべく缶詰の巻締め技術の講習会を開催し資格認定制度を設け業界のレベルアップを図った。
当講習会は昭和38年から始まり毎年開催され今日まで150回を超え、数多くの缶詰製造技術者を世に送り出した。この食品缶詰から始まった講習会は飲料缶詰の製造へも展開され幅広い人材の養成を行い業界の発展に貢献していると自負している。
第4次中東戦争をきっかけに、原油価格が急騰し、戦後わが国経済は初めて実質マイナス成長となった。
このころから日本の缶詰の海外市場での価格競争力が低下し国内市場への転換を図る試みが活発になってきた。
昭和60年9月のプラザ合意に基づき、各国の通貨当局がドル高是正のため協調介入を実施、我が国も積極的にドル売り介入を行った。
このため、短期間にドル安円高が進み、缶詰の輸出産業は大きな打撃を受けた。輸出品目として残されていた水産缶詰にあっても本格的な内需転換を講じる必要に迫られた。
一方、2回の石油ショックを乗り越え体力をつけた日本経済は過剰な投機熱が起こり、いわゆるバブル景気とも言われる異常な好景気が到来した。
農産物の自由化、関税の引き下げ等が実施され、これまで輸出品目としてその地位を築いてきた缶詰市場は逆に輸入品の攻勢に曝されることになった。
●製缶業界のあゆみ
昭和48年の石油ショックは、日本経済にインフレの加速化、需要の減少、国際収支の赤字転落という3重苦をもたらした。しかし戦後大きく経済発展した我が国は、生活水準が向上し、様々な食生活が紹介される様になった。特に果実飲料や炭酸飲料といった生活を楽しむ嗜好飲料がより身近になり、石油ショックにより一時的に影響を受けたものの「缶入りコーヒー」、「スポーツドリンク」、「ウーロン茶飲料」等の新製品が次々と開発・登場することにより、清涼飲料市場は順調に推移した。この恩恵を享受した製缶業界は、飲料缶を主体とした缶詰市場の拡大とともに拡大路線を維持した。
☆協会のあゆみ
昭和50年代、当協会は輸出缶詰の競争力の低下とともに国内の缶詰の需要を広げるべく各関係団体と缶詰の共同宣伝を実施し、一般消費者を対象に缶詰知識の普及、缶詰の料理講習会を開催し大きな反響を得た。
一方、我が国は順調な経済成長を示し、生活用品や車や電化製品があふれる豊かな生活を謳歌する様になり缶飲料の市場も急激に大きな市場を形成する様になったが、反面、空き缶散乱問題が顕在化した。
これに先駆けて当協会は飲料缶を始めとする空き容器問題に取組み、実態調査を行うとともに対策を検討した結果、製缶業界及びブリキメーカーが空き缶の社会的問題に対応するために新たにあき缶処理対策協会(現スチール缶リサイクル協会)を昭和48年に設立した。
それ以降、あき缶処理対策協会とともに様々なキャンペーンやイベントに参画、環境問題にいち早く対応、今日の空き缶のリサイクルシステムの構築に貢献した。
また、食品を扱う容器としての衛生問題についても注力し、食缶の衛生基準の自主基準を作成するとともに、これに対応するポジティブリストの作成を行った。
この活動は後に食品衛生法の改正へとつながっており、食品の安全性への対応は業界として益々重要な検討事項になってきている。
さらに清涼飲料分野においては当時大きく市場を拡げた缶入りコーヒー飲料を始めとする缶入り低酸性飲料の安全性確保のため日本缶詰協会とともに当飲料の陽圧缶への展開を見合わせ、より安全性の高いシステム、容器が開発されるまでの業界自粛規制を行うことを公表した。(昭和59年)
また、様々の食品が上市される中、缶詰も輸入品も含めて多種多様なものが登場し、缶詰のメーカー側からの空缶規格整理の要望が強くなってきた。
当協会としてはこれを受け昭和53年11月に業界の食缶の規格をJIS規格として整理を行い、これを基に「JISZ1571 食品缶詰用金属缶」が日本規格協会から発行された。
国際規格との摺り合わせを行いながら、日本の市場にあった空缶を提供する様缶詰・飲料業界と歩調を合わせた規格整理を行いJISの改正、ISO(国際規格)との整合性を推進している。
バブル経済がはじけ、消費者は堅実な生活を求め、且つライフスタイルの変化により、安価な輸入缶詰や個食に合ったレトルト食品や冷凍食品に市場を喰われる様になり、国産缶詰の減少がさらに見られる様になった。
特に、農産物の輸入の自由化によりトマトジュース、オレンジ果汁、牛肉等が自由化となりまた、平成5年にはガットウルグアイラウンドが妥結し、缶詰を含めた多数の品目の関税が引き下げられ、益々、海外製品との競争が激しくなり、缶詰の国内原料を確保することも困難になってきている。
特に東南アジアを筆頭とする新興国は安価な労働力と豊富な資源を武器に我が国の市場へ大きく進出してきている。
一方、様々な海外製品が市場に溢れるようになり消費者がこれを購入するチャンスが多くなるとともに購入製品の使用法の誤認等による危害が多くなってきた。これに対応すべくPL法(製造物責任法:Product Liability)が平成7年に施行され、消費者の保護優先の制度が誕生した。
●製缶業界のあゆみ
順調に拡大してきた清涼飲料分野においては、リサイクルシステムの未整備を理由に清涼飲料業界が自主規制していた小型PETボトルが平成8年に規制解除された以降、PETボトルのリシール性が消費者に評価され急拡大した結果、スチール缶・アルミ缶とも需要が減少に転じることとなった。
このような状況の中、世界的な環境に対する問題意識の高まりを受け、製缶業界としても対処すべく、従来缶に比較して塗料の使用量を大幅に削減した新しい製缶方法の開発が行われ、二酸化炭素の排出、工業廃水等の環境負荷を低減したPETラミネート缶を開発した。
☆協会のあゆみ
当協会においても消費者への危害がどの様な形で出現するかあらゆるケースを検討し、そのリスクを軽減すべく、協会員に対しPL法マニュアル「消費者苦情対応マニュアル(平成8年7月)」の発行を行った。
また、PL法の施行に先立ち消費者に対し缶詰のイージーオープン蓋の開口方法についての認知度を高めることにより、より安全性を高めるために「蓋の開け方表示」を業界として統一するとともに、全ての缶詰のフル・イージーオープン蓋に同表示をするよう会員会社及び関係団体に通知した。
また、空き缶の環境問題から飲料缶におけるプルタブの散乱問題が社会的な問題と取り上げられ始めたことから業界ではいち早く対応をとり、プルタブが缶胴と離れない機構の現在のSOT(Stay On Tab)蓋を一斉に採用した。協会としてはこれに切り替える設備投資の軽減策として優遇税制を申請し了解された。このことにより従来のプルタブ蓋からSOT蓋に急速に切換が推進された。
日本経済は、バブル経済後の反動を乗り越えながら堅実な成長を続けた。IT産業への活発な投資、また安価な海外品との競合から物価が抑えられ堅調な消費を示す一方、自動車産業の活発な輸出振興拡大、海外への企業移転などにより日本経済は海外への依存度は益々高くなっている。
一方食品業界は海外からの大量な農産物の流入がはじまり、食品の自給率は先進国中最低水準の40%(平成19年)にまでになっている。この様な状況下、食の安全の関心度は益々高まっており、狂牛病、残留農薬問題などで安全確保と消費者への安心度を確保することが社会的課題となっている。
また、偽装表示問題の発覚など消費者の企業への信頼性を失う事件が多発し、食品産業崩壊の危機に直面している。これには食品業界一丸となってコンプライアンス行動の遵守に取り組まなければならない時代になっている。
国においても消費者保護を一番の優先とする政策から消費者庁の設置など時代の大きな変革の時期を迎えている。
さらに地球の温暖化問題等地球規模での環境問題が更にクローズアップされてきており当業界においてもこれ等の問題は大きな課題となっている。
一つは事業者から出る有害性のある様々な化学物質の環境への排出量を把握することにより、化学物質による環境保全上の支障が生ずることを未然に防止することを目的に「特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律(PRTR法)」が施行された。(平成11年7月)
(PRTR法 Pollutant Release and Transfer Registerの略称で、有害性のある化学物質(Pollutant)が、どの様な発生源から環境のどこに排出されているかの量(Release)、および廃棄物として廃棄物処理業者に移動される量(Transfer)を把握し、行政に届出(Register)する。行政は事業者からの届出を集計して公表する仕組み)
また、平成7年6月に公布された容器包装リサイク法の施行は平成12年に紙製容器包装、プラスチック容器包装等が対象になり、完全施行となった。
平成18年には同法の見直しが検討され、更なる廃棄物の減量化、資源の有効利用等、我々産業にとって地球環境を守るための使命が大きくクローズアップされてきている。
当然、同法への対応は、業界に課せられた重大な課題で全力をあげて取り組んでいかなければならない問題である。経済性との協調をさぐりながら社会貢献を果たして行かなければならない。
また、今日原油価格の乱高下、新興国の旺盛な需要から各種資材の高騰に始まり、世界規模での金融危機が深まっていることに伴う、世界的な景気後退の影響を受け、我が国経済は、景気の下降局面が長期化そして深刻化するおそれが高まっている。缶詰原料等の諸資材の高騰は直接に当業界へ大きな影響を与え始めている。
製缶業界としては、持続性のある未来に向けて各関係省庁・業界と協調し、地球的視野に立ち、豊かな生活を実現するために今後とも努力していかなければならない。
☆協会のあゆみ
環境問題を様々な角度から検討、容器・包装業界では3R推進団体連絡会(スチール缶リサイクル協会、アルミ缶リサイクル協会、飲料用紙容器リサイクル協議会、紙製容器包装リサイクル推進協議会、ガラスびんリサイクル促進協議会、プラスチック容器包装リサイクル推進協議会、PETボトルリサイクル推進協議会、ダンボールリサイクル協議会の8団体が加盟)を設置、容器のリデュース(Reduce・減量化)、リユース(Reuse)、リサイクル(Recycle)における数値目標及び啓発活動を推進している。特に容器の減量化・省資源化を最重点項目として取り上げており、当協会でも製缶材料を少しでも使用しない製缶方法の推進を行うべく「軽量化推進委員会」を設置し検討し精力的に取り組んでいる。(平成18年6月)
また、子供たちにスチール缶への認識を高めてもらうと共に地球環境・リサイクル活動への関心を拡げるためにスチール缶リサイクル協会(旧あき缶処理対策協会)及び日本缶詰協会と共催で「スチール缶リサイクルポスターコンクール」を開催している。(平成18年〜)
また、更にPRTR法の告示に基づき、業界の共通問題と認識し、製缶工場から排気される特定化学物質の排出量の把握・管理するためのマニュアル「PRTR排出移動量算定マニュアル」を平成13年7月に作成し関係部門へ配布した。
また、近年、様々なプラスチック等化学物質が容器にも使用され利便性の向上、品質の向上に大きな役割を果たす様になったが、これによる衛生問題をクリアーすることも当然、当業界として課せられている。
当協会は、昭和53年に衛生問題専門委員会を設置し、業界の自主基準「食品缶詰用金属に関する衛生基準」を発行したが、近年、特に安全・安心の観点からの配慮が強く要請されている。これに応えるべく平成7年の改訂を経て、平成16年に第3版の改訂版を発行した。また、人への影響が未確認とされているが、衛生性のリスクをより軽減するために、平成20年に管理マニュアルとして業界の自主ガイドライン「食品缶詰用金属缶に関するビスフェノールA低減缶ガイドライン」を発行した。
日本製缶協会は、あらゆる方面から適切な情報収集、業界情報の交換を行い、業界の窓口として、法規制問題等の監督官庁への要望・連絡等を行うことを、大きな使命とし、今後も会員会社の発展、産業界のために積極的に尽くしていきたいと考える。